News Diet読んだ
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読んだ。ニュースは見ないほうがいいんじゃねえのっていう本だ。なんでこれに興味を持ったかというと、はてなブログで言うのもなんだが、はてなブックマークを見るのをやめたいとずっと思っていて、やめられていないからだ。
で、読んでみての感想は、ちょっと極端じゃないかということだ。極端というか、ニュースは見ない方がいいという結論が先にあって、そこにいくための都合の良いものごとだけをこじつけているというか、そういうパターンの言説に思える。本当に必要なニュースは誰かが教えてくれるから自分でニュースを見る必要はない、と言ったかと思えば、世の中の誰もニュースを見なければ世界はもっと良くなると言ってみたり。古代の思想家の時代にはニュースなどなかったから、現代でも見なくて問題ないんじゃないかと言ってみたり。そもそもニュースの定義からして、この人の認めない文章はニュースで、認める文章はニュースじゃないってことじゃねえのと思わせる。
そういう否定的な思いもあるが、言ってることに頷くところも多く、だからこそ最後まで読めたのだと思う。
別にひまつぶしの情報の流し込みをニュースに頼る必要はなく、自分の興味のある方向性の本でも読めばいいじゃん、と言う。まさにその通りである。
ニュースっていうのはその産業的な構造上、人の感情を刺激するように作られていて、見るといろんな感情な襲われるが、よく考えろ、それってお前の人生にとって必要なことか?と言う。それは確かにそうである。
ところで、何を隠そう、俺にはニュースを断っていた時期がある。大学3年から4年くらいのことだ。別にニュースを断とうと決心したわけでなく、家にあったテレビを研究室にもっていってディスプレイにしたので、テレビをみる手段を失ったのだ。で、その頃ははてブやネットニュースを見る習慣もなかったので、まさにニュースダイエット状態だった。
そのときに何か困ったかというと、全く何も困らなかった。ちょっとはニュースも見ないとな、と思うことも全くなかった。まあそれは、学生という立場によるものが大きかったかもしれないが。
思うに、ニュースを見ないというのは、案外にも、ワンピースを見ないのと同じくらいの影響しかない。ニュースを見ていて、あのときはこんなこともありましたが…という繋がりが出てくることはよくあって、それがニュースを見なかった期間のものだと、俺が知らない期間のことだなと思う。それは、ワンピースを見ていて、過去のキャラクターが再登場したときに、俺はこの時代のワンピースを読んでなかったからこいつが誰かわからねえな、と思うのに似ている。それで困るかというと、それほど困らない。
この人が腐すほどにニュースは悪いものでもなく、共通知識として会話のネタになったり、興味を持って深く調べたいものごとに出会うきっかけになったりする。そういう面もあるが、見ないとダメなものでは決してなく、情報の良質なインプット源は他にもいくらでもあるんじゃねえのっていう主張には、まあ賛成しておく。
マスカレードナイト観た
観てきた。前日にテレビでマスカレードホテルやってて、後ろ半分ぐらい観たんだけど、それでけっこう設定を思い出せたので観といてよかったなと思う。
ところで、前作を映画館で観たときはトイレを我慢できず、最後の明石家さんまのゲスト出演を見逃したのであった。その反省を踏まえて、事前にトイレに行ったのだが、上映時間に間に合わず、また明石家さんまを見逃したらしい。が、最後まで集中して観れたのでそこは良かった。
それにしてもキムタクは格好良いよな。キムタクは格好良いというか、格好良いとはキムタクのことだという刷り込みがある。俺はみんながこぞってHEROのダウンジャケットを着てたあたりの世代よりはちょっと下で、直撃ではないのだろうが、それでも格好良いなと思う。
内容は、とても良かった。本筋とはずれるが、麻生久美子の旦那の話で感動して号泣してしまった。のを奥さんに馬鹿にされた。という本筋に関わるネタバレ。
焼きそばの話
今週のお題「肉」 なのだが、肉の話をしようとすると焼きそばの話になってしまう。この奇妙な現象のもとは幼少期へと遡る。
俺の実家がある町にはそこそこ有名なブランド牛がある。いや、なんかどうもブランド牛というのは思ったよりどこの町にもあるようなのだが、まあとにかく俺の町にもあった。 で、親戚だか仕事関係だか近所付き合いだか知らないが、どうも一年に一回くらい、うちにその牛肉が贈られてくることがあった。
最初は家族も舞い上がったことだろう。ブランド牛というのは大体がちょっとびっくりするぐらい美味しい。うちの実家に届くそれも本当に美味しい。 ところが、人間とは恐ろしいもので、毎年届くともなると、徐々に感動が薄れていくものだ。年の離れた末っ子であるところの俺がものごころつくころにはだいぶ薄れていたのだと思う。母はそのブランド牛を焼きそばの具にして出したのであった。
あのとき、姉は激怒していた気がする。こんな素晴らしい肉を焼きそばの具にするなんて、と。ということは、母以外はまだわりとまともな神経を保っていたのかもしれない。で、幼い俺はそれを食べた。今まで食べたどんなものより美味しかった。これが焼きそばか。俺は焼きそばというものを知った。そのようなご馳走がこの世にあることを知った。
俺はリピートを要求した。幼い、かわいい盛りの俺の意見は通り、次の日もまた、ブランド牛を具にした焼きそばが出された。姉はもう諦めたのか何も言わなかった。それからうちではブランド牛とは焼きそばの具であるということになった。
俺は今に至るまで焼きそばが好物である。もちろん毎回うちにブランド牛があるはずがないから、普通の具による焼きそばが出されることは何度もあったはずだが、それらも変わらずうまいと感じていた。が、明らかに最初、俺がうまいと感じていたのは、焼きそばではなく、ブランド牛であった。
焼きそばが好きだ、という話をすると、共感してくれる人もいるが、祭りの屋台の話になったりする。奥さんは、母がいない日、祖母が孫たちのために鉄板で大量に焼いてくれる焼きそばが好きだったらしい。それらは素晴らしいのだが、どうも、俺の思っている焼きそば観とは違っている。皆は、焼きそばとはチープで親しみやすいものだと思っている。俺にとって焼きそばとはご馳走である。
しかし、ひょっとすると、世界でいちばん美味い焼きそばを食べたのは俺なんじゃないかと思ったりもする。ブランド牛が入ってる焼きそば、皆さん食べたことあります?焼きそば屋なんていうのも、富士宮なんかにはあるだろうけど、あんまりないわけで。いや、世界には素晴らしい焼きそばはたくさんあるだろうけど。
で、俺も大人になって、ときどき実家に帰ったときは、ブランド牛を買って戻ったりしている。が、さすがにそれを焼きそばの具にする胆力はない。 だいたい、どんなシーンで食べるにしても、これを焼きそばの具にしようなんて提案が通るわけもなく、しかしブランド牛を独り占めできるようなことが今後起こるとも思えず、そうすると俺はもう一生あの焼きそばを食べられないのかもしれない。そんなことを思いながら、ときどきペヤングなんかを買って美味しく食べたりしている。
2021/09/17
休みであった。
何もしないということをわりとできた日だった。なんかしてしまいがちだが、何もしないが正解のときもある。
ちょっと長めの文章を書いた。頭の中でもやついていたことでもあったので良かった。
2021/09/16
日記をまいにち書こうとしている。しているうちに10日経っていた。先週よりは時間ができて、余裕ができて、そうして思うのは、ちゃんと日記を書くというのは余裕があってはじめてできることだ。とにかくなんでもいいから書き込んでノルマを果たすことはできるが、それを続けるとこの行為に意味はあるのだろうかという虚しさに襲われる。まあしかし、なんでもいいから書き込むようにはしたい。
今日は人前でしゃべりをした。俺はしゃべるのが得意ではないが、筋を通したしゃべりができるので、そういうのを求められる場では俺がしゃべってもいいと思う。今日は俺がしゃべって良かったんじゃないかと思えて良かった。